どうして「愛のかたまり」が大切なのだろう
SONGSのKinkiさんを見ました。
「愛のかたまり」を聴くたびに「重いなぁ」と思うのですが、その「重い愛」に、私はどうしても「Kinkiという2人」を投影してしまいます。というか、この曲は「Kinkiの2人のこと」だと、確信して聴いています。
こ れは決して変な意味でも真実でもなく、「これは2人のことなのでは?」という「暗喩」は意図的に行われていると感じるし、そういう妖しい「演出」として彼 らは歌っていると思っています。「愛のかたまり」、略して「愛かた」=「相方」ですからね。(なので後輩さんが歌う時には、その妖しさを出すことを意識 すればより本家っぽくなるのではないかと思います)
この曲の最後の歌詞は
「最後の人に出会えたよね」
で終わります。あれだけの重い愛を歌い上げているのに、最後は疑問形であり、出会えたよね?という不安を残しているのです。
その揺らぎと脆さこそが「Kinki Kids」だなと思っています。
私は「Kinki世代」であり、Kinkiとは、超絶対的な「アイドル」です。小中学生の頃、ジャニオタとか関係なくクラスの女子は全員Kinkiが好きで、好みのタイプは「剛派か光一派」かで語り合った。これは比喩でも誇張でもなんでもなく、本当にそうだったのです。
Kinkiの2人がソロワークを始めたり、剛さんがカメラを見れなくなった頃、私はまだ子供で、アイドルの2人が大好きだったので、正直、「もったいない」と思いました。
このままスーパーアイドルとしての道を駆け抜ける事が出来るのに、どうして歩みをとめてしまうのかと感じました。
特に剛さんが、だんだん踊らなくなり、アイドルらしからぬビジュアルになったときは、どこか「裏切られた」とすら思ったのです。私が信じていた偶像を破壊されたような気持ちになりました。
その後も2人のことは好きだけど、やはり歌っている時の2人の中に「昔の2人の面影」を探しているときがあるし、「昔はよかったのに」と懐古してしまうこともありました。
でもその時期がないと今の2人はないと彼ら自身は言うし、今の2人の自然な在り方を見ていると、あそこでKinkiの2人が「アイドル第一章」に一度区切りを付けたのは、必要なことだったのだなぁと感じます。
正直に言って、そんな風に思えたのは本当に最近のことで、そう思えたことは私にとっては革命的なことでした。
そう思えたのは、「愛のかたまり」をテレビで歌う2人が、見るたびにどんどん素敵になっていくからです。
あのままずっと「アイドル」を守っていたら、きっと2人はこんなに素敵に愛のかたまりを歌い続ける事はできなかったかもしれないと思ったとき、なんとなく私の中の「過去の2人の栄光を知っている」という呪縛から、解き放たれたような気がしました。
これからもきっとどんどん素敵になっていく「愛のかたまり」を見せてくれるのだろうな、と思っています。そして、いつか愛のかたまりを超えるような2人の共作が発表される日を、私はとても楽しみにしています。